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新宿御苑内の温室で福羽逸人博士がオランダから輸入したイチゴを改良して皇室に献上した事に始まります。当時、新宿御苑は宮内庁の管理化に有り、此処で研究、栽培されたものは宮中以外は門外不出をされていました。福羽博士は10年余の歳月 をかけて改良に改良を重ね完成したイチゴに自らの名前を冠して「福 羽苺」と命名。その後許可を得て、市場向け栽培が行われる様になっ たのは昭和の初期の頃(1928年~30年)の事です。当時、静岡県の蒲原町、小笠町、等ではアメリカ種のマーシャルやビクトリアという品種のイチゴを生産して東京や大阪の青果市場に出荷し、千疋屋や万 惣、などの高級果実店や、洋菓子店の先駆者不二家などに供給していましたが、福羽苺が登場するや需要はこのイチゴに集中し、静岡の広範囲の地域で福羽苺の本格生産が始まりました。この時既に熱心な生産者は 石垣栽培を始め、更にその上にガラス障子を被せて保温するハウスの原型とも云える栽培も始めて います。
宮中顧問官、正三位勲 一等、農学博士福羽逸 人(ふくば・はやと) 子爵(写真提供、誠文 堂新光1987年6月 発行「福羽逸人を憶ぶ」 より謹撮する。
1箱(9ヶ入、12ヶ入、16ヶ入)で2円50銭と云う値が付いたそうですが、因みに米 1俵(16kg)が10円90銭だった事と比較すると、相当の高価で取引されていた事が判ります(昭和7~8年、1932~ 3年頃)。当時、静岡県興津町には明治の元勲西園寺公望公爵が坐漁荘に在り、政府の要人からの付け届けや、宮家から の注文と上流社会で重用された事が記録に出ています。
イチゴの生産も全国展開する様になり、特に首都圏での取引は活発になって来ました。出廻っていた品種は福羽苺以外には戦前からのマーシャル、ビクトリアに加え、戦後のヒット種となった幸玉早生とダナー種が有ります。特にダナー種は北関東で大流行しこれがイチゴを、みかん、りんごに並ぶ日本の代表的果実に成長させる事になりました。
これはイチゴだけの特性ではないかも知れませんが、同じ品種を、たとえ株を1年更新していても作り続けると必ず劣化して行きます。その為 品種の改良が必要となって来ます。新しい品種を作り世に出さなければ産業にはなりません。概ね20年がイチゴの品種の寿命と云われています。私は戦後間もなくから果物屋を始め、ケーキ屋さんにイチゴを納入 し始めたのが昭和30年台初めの頃(1955年~60年)ですから、今日まで50年近くになります。この間市場で大きなシ ェアを占めた品種を振り返ると、やはりそれぞれの品種が20年前後で消えています。
東京中央卸売市場への品種別入荷量戦後最大のヒット品種ダナーもやはり20年強で衰退した事が表からも判る。
イチゴの歴史に欠かせないのは品種の変還に次いで栽培技術の進歩が有ります。